クリフサイド

  • 2010年12月01日

代官坂の中腹にあるクリフサイドは一昔前の遊び人は誰もが踊ったことのある場です。
懐かしい人も多いと思います。
東京からも大挙して押し寄せた名門クラブも今ではひっそり営業しています。
しかし今でもビックバンドをよんだり、社交ダンスが開かれています。
中はいい意味での昭和のデザインで、今では作るのが難しいであろうマホガニーのカウンター。
広い天井。
木の床。
全てが素敵です。
ハマの財産ですね。
皆さんも活用してくださいね。
http://homepage2.nifty.com/cliffside/story.html
クリフサイドの青春
文=荻野アンナ
 山の手の住人にとって、買物をするとは、坂を上がることである。
 元町商店街を動脈とすれば、そこから、何本もの細い血管が、緑の丘にのびている。
 そんな血管の一つが、代官坂である。傾斜はなだらかではあるが、両手のショッピングバッグが重りになる。心持ち背をこごめ、自然にうねりに足を沿わせているうち、次第に息がきれてくる。火照(ほて)った頬(ほほ)が風を感じ
 ブテックの名前の入った紙袋を、得意げに下げていることもある。が、たいていは老舗のスーパーや新参のコンビニの食料品でふくれたビニール袋が、指にくいこんでいる。
 私にとっては、生活の足を運ぶ坂なのだが、そこに青春のひとときを、蛍火のように輝かせた人もいのだと、最近知った。
 名古屋で乗ったタクシーの、初老の運転手は、客が横浜の人間と知るなり、無防備な笑顔を見せた.伊勢佐木町。港。マリンタワー。彼の口から「クリフサイド」の名前が出るに及んで、私のほうも膝(ひざ)を乗り出した。
 代官坂の中腹を、右に入ったところに、お伽(とぎ)話の城を、上からひしゃげて、コンパクトにした感じの、一風変わった建物がそびえている。
 長い歴史を誇る、ダンスホールである。戦後の一時期は東京まで名前がとどろいていたという。私にとっては、買物帰りに横目で眺めるだけの店に、その運転手さんは、若い頃よく通った、と目を細めた。
 当時はいなせな船員だった。とっておきのダンスシューズに、髪はポマードで念入りに固め「クリフサイド」にくりだした。
 踊っていて知り合った、とは、今でいうナンパになるが、相手はお嬢さん育ちである。彼女からくる手紙には、英語の単語がまじっている。彼はあわてて辞書を買い求め、独学にいそしんだ。
 そのうち彼女に縁談が来て、それっきりになった。手も握ったことはない。だから歳月をへてもなつかしい。なつかしいな、横浜、とそのひとは甘いため息をついた。
 以来、代官坂を通るたびに思い出す。昔、この坂を、胸をときめかして上がった人がある。他人の記憶で、少し胸を熱くして、足を止める。「クリフサイド」の白壁が、薄暮に鮮やかに、浮かび上がる。
(この文章は『市民グラフ ヨコハマ』 1996 No.95から抜粋致しました。)

真っ黒なおでん

  • 2010年12月01日

野毛おでんに行きました。真っ黒になるまで煮込んだおでんです。
勿論竹輪麩があります。
関西の人が見たら目を剥いてしまうようなおでんですね。
しかし私は大好きです。
この時期はおでんがおいしいですね。
おでんには熱燗が良く合います。


留まる人

  • 2010年12月01日

先日カーボンフリーコンサルティングの歓送迎会が開かれました。出張が多いスタッフが大体顔を揃える場となり大変盛り上がりました。新しい場所に行く人、新しい場としてカーボンフリーコンサルティングを選んだ人、ここに根をおろし留まる人。
出会いと別れ。
去っていく人の顔からは今までの感謝の念と寂しさからか、顔を崩しているのが分かります。
今までどうもありがとう。