湘南に住むということは

  • 2007年11月03日

湘南で暮らしているというと羨ましがられることがある。確かに、都会とは程よい距離があり、しゃれた店も多い。海にも山にも囲まれているこの地域には緩やかな時の流れがある。
魂を休めるために暮らすにはいい場所だと思う。それでも俺はこの町で暮らすことに時折息苦しさを覚える。緩やかな時間軸に自分を絡め捕られてしまいそうになる。それは現実を直視しない、自分の身の回りのことしか考えない極めて視野の狭い人間に陥ってしまう事への恐怖心でもある。居心地の良さに甘んじて平和ボケしてはならない。「そんなのどこで暮らしたっておんなじだよ」といわれたことがある。日本全国平和ボケ状態なのだろうか。確かに大人が観るに耐えられるテレビ番組は少ない。余りのくだらなさにテレビ画面をバットで割ってしまいたくなる衝動に駆られた人は多いだろう。NHKすら亀田親子の報道をしているその瞬間にも、民族浄化という名の虐殺が行われている。ルワンダの悲劇はDRCとスーダンに場所を変えて現在でも続いている。石油ルート確保のためにスーダンを支持している中国に対して、アメリカの上院下院の100名近い議員と、フランス議会は断固とした行動をとるように決起したにもかかわらず、日本政府は民意を愚弄する自・民大連合構想等で国会はストップしたままだ。視線を地元の町におとしてみても、不正で私腹を肥やした議員の罷免すら、保身のために出来ぬ町会議員が跋扈している。日本人は勤勉な民族である。それは本当だろうか。様々な国の人々と17年に渡り働いてきたが、どうも素直に頷けない。平均値は高いのだろうし、敗戦から立ち直り経済大国にしてきたのも事実である。しかし、現時点でもいえることなのだろうか?日本人は恥を知っている民族であった。そして恥をかきたくない事がエネルギーとなり、戦後の大経済成長の原動力になったのだろう。ハングリーさを失い、羞恥心すら薄らいできている日本人が、猛烈に頑張っている他の国の人々と比較して手放しで優秀だと何をもって言えるのだろうか。一流の工業製品を作っているからか?日本での学歴など世界の基準では通用しない。はっきりしなくてはならない肝心なところを曖昧にしてしまう体質が未だに根強い。それは日本の悪い文化であると思う。湘南で暮らすということは海や山に囲まれているので自然の移り変わりを間近に感じることができる。それはそれで嬉しいことでもあるのであるが、地球温暖化が進んできているのも肌で感じることにもなる。真綿で首を締めつけられてきている感覚である。環境問題を煽ってはならないと思う。Ecoとかロハスとか言う言葉を使うことすらためらっている。免罪符がわりにそれらの言葉を使っている輩が多いからである。それでも温暖化が加速しているのは事実だろう。結局どこで暮らしていようが、世の中を刮目し、行動を起こす勇気が必要なのだろうか。