自由人という名の困った人々
- 2013年02月01日
自由人だとか、自由人になりたいとかいう、不思議な人に出会う事がある。
話しを聞くと、スーツが嫌だとか、会社に所属することや命令されるのが嫌だとか、旅人でありたいとか。。。。。
スーツ着ていれば、奴隷、社畜だとでも言うのか?
勤め人には自由が無いとでも言うのか?
なんとも浅薄な考えである。
フリーランスや自由業ならよくわかる。
専門家だ。努力と才能で成り立つ厳しい仕事だ。
しかし自由人などという言葉は全然キャッチーな言葉ではないし、単に胡散臭さが漂うだけである。
寧ろ言葉に縛られて虚栄を張る惨めさすら漂う。
結局はみかけごときに拘り、肝心な本質を見ていない。
自由人どころか、全然ロックではない。
人によって何を自由と感じるなんて全く異なるし、価値観の押し付けなど真っ平ごめんだ。
日々精進。
それが、私が自由だと感じることだ。
背負うものも大きいし、やりたい事も多い。
背負うものがあるからこそ今まで見えなかった世界を観ることができる。
一人ではできない事が多いからだ。
やるのもやらぬのも自分次第。
戦いたいから戦っている。
だからこそ私は自由人だと感じている。
しかしそれがどうした。
人それぞれだろう。
人にいちいち言うものではない。
ありとあらゆる肩書きなど無用と思ってもそれは自分の胸の中にしまっておけば良い。
寧ろ、きちんとした身なりできちんとした肩書きを持って働いた方が遥かに自由にそして意義の深い仕事ができることがある事を、まともな大人ならば誰もが知っているのだろう。
そんな格好悪い言葉遊びで自ら牢獄に入るような窮屈な自由で、自由人ぶっている奴らなどドロップキックだ。
ロベン島 ネルソン・マンデラ この狭い牢獄で18年間過ごした。
勿論自由などない。しかし時間だけは沢山あったことで、未来の南アフリカについて詳細なイメージが組み立てられた。
考える事は自由。
ましてや、誰も拘束することのできない身である人々が自由でないとは一体どういう事だろう。
己の影を否定してどうする。誰かの所為にすべきではない。
その道を選んだのは自分以外ではないはずだ。