新聞の公共性と役割

  • 2019年01月31日

日本新聞協会が発行した新聞の公共性と役割
〜私たちはこう考えます〜を改めて読んでみた。
なぜ新聞が衰退したのかの理由を垣間見たような気がする。
時代遅れとかいう以前に役割を勘違いしていると感じた。
「民主主義を支える基盤」「歴史の記録者」を前面に出している。
それはそれで構わないのだが、それは新聞というよりも「メディア」全般について言えることである。なぜ新聞なのかという答えではない。
「ネットの時代だからこそ、新聞の「中核(ハブ)メディア」としての役割は高まっていく」と断じているが、その最大の理由は「新聞はネット情報の最大の欠点である誤情報・デマの拡散の防波堤としての役目が期待される」としている。これも、テレビニュースとの差異がわからない。

「記者の仕事は、政府がやっていることが正しいかどうかを、皆さんが判断する材料を提供することです。政府が認めたことだけをやっているのは、皆さんに『奴隷になれ』と言っているのと一緒」とはシリアから解放された安田氏の言葉である。
一理あるかなとも思うが、そもそも「反権力」がジャーナリストの矜持であるとの視点に立脚しているのは明らかだ。

ある記者は最大の役割を「権力を監視する番犬であること」と言った。

これは間違いである。このような考えに立脚して新聞を作って欲しくないのだ。

権力の有無ではない。是々非々であるべきなのだ。

権力の監視は結果であるべきなのだ。

「読者は新聞と新聞記者に期待しているのは事実を客観的に伝えることであって、『権力と戦う』という彼らの自己陶酔ではないのだ」と中国民主化運動で重要な役割を果たした石平氏はいう。

これは肚に落ちるのだ。
反権力というポジションは実に格好がよく見えるが、実は常に自分は安全なところに身を置いて、何ら建設的なことを成し得ていないのである。政権は変わる。当たり前だ。それが法律でもある。批判など簡単なのである。
新聞の役割は、事実のみを客観的に伝えること。それだけである。
事実に基づいて、それを材料に判断をするのは国民に委ねるべきである。
知りもしない記者の意見など聞きたくもないのだ。

新聞社は民間企業であり、そして記者は国民に選ばれたわけでもないのだ。
言論の自由はもちろん大切である。では読まないのも自由だ。
この温度差が新聞社の方々にはイマイチピンと来ていないのだ。
仕事柄多くのメディアの方々に接してきた。

知り合いにも記者は多くいる。

しかし多くの大手新聞社の人々は、総理ですら呼びつけだし、「俺が辞めさせた」などと吹聴している輩もいる。

ペンの力は強力であるが、人を裁く権限はないはずだ。


専門紙には専門紙の大いなる役割があることも理解している。
地方紙には地方紙の良さがあることも理解している。
気になるのは大手メディアの新聞である。

毎年大幅に発行部数が減少している。

これは活字離れではない。インターネットのせいだけでもない。


もはやバイアスが掛かった記事を読みたいと思うだろうか?
私はNOである。

https://www.pressnet.or.jp/keigen/files/shimbun_koukyousei_yakuwari.pdf