justice
- 2014年07月31日
今日は、検察審査会で大きな進歩があった。
東電の旧経営陣に対する起訴相当である。
何の驚きも無い。
むしろ起訴されて当たり前であったと考えるのが国民の常識であろう。
しかし、なぜ東京地検は不起訴としてしまったのだろうか?
あの時の失望はとてつもなく大きかった。
何万人がため息をついただろうか?
「予見不可能だった」というのが理由だった。
強制捜査すら行なわれなかった。
15メートルを超える津波の予測は出ていた。
歴史をみれば地震が頻発していた地域だった。
不測の事態に対する準備ができていなかった。
実は津波ではなく、揺れで設備が破損していた可能性が高い。
負ける戦いはしないのだろうか?それは検察に対する国民の目とは乖離している。
勝ち負けだけで、検察に対する評価をしている訳ではない。
世の中の巨悪に挑む姿勢が無くなってしまったのだろうか?
かつては「巨悪は眠らせない」と強い姿勢をとっていた検察は、最近はどうしてしまったのであろうか?
大物や組織がらみのものよりも個人の不正に嫌疑をかけて、メディアへのリークを行なう。
マスコミも情報源の秘匿を盾に検察以外知り得ない情報を一方的に報じることがある。
馴れ合いである。
検察によるリークは刑事訴訟法および国家公務員法違反である。
「捜査情報や捜査方針を外部に漏らすことはないものと考えている」として、内部調査を何処まで真剣にやったのだろうか?
今まで1度もなかったのだろうか?
西松事件、小沢一郎など沢山の事例があるではないか?最近では美濃加茂市長の収賄疑惑でも言われていることだ。
誰も信じてはいない。
勝たなければ意味が無い?
本当にそうだろうか?
寧ろ、東電に対する責任追及ができないのであれば、どれだけ多くの失望を産み、
そして怠慢な経営者が跋扈するようになるだろうか?
イタリアでは地震を予知できなかったとして、地震学者6人と公務員1人に実刑判決が下った。
やり過ぎだろうか?多分そうだろう。
韓国では旅客船のオーナーが国を挙げて捜査が行なわれた。
やり過ぎだろうか?加熱しすぎたのは否定できまい。
しかし、日本は放置し過ぎである。
言論の自由を盾に取ってヘイトスピーチの取り締まりすらできない。
報道の自由も、言論の自由もグローバルスタンダードを勘違いしていないだろうか?
国連人権委員会からヘイトスピーチ禁止勧告が出ている。
検察は一罰百戒的な狭い視野で個人ばかりに向かうのではなく、取り調べの可視化を進め、メディアとの馴れ合いを辞めて、国民の正義の代弁者として巨悪に勇敢に立ち向かって欲しいと思う。検察の正義ではない。社会正義の為に働いて欲しい。
そして有罪か無罪かは裁判所が決める。
当たり前の事だが、検察が起訴すれば有罪となってしまう悪習は正さなければならないと思う。