伊達の黒船と支倉常長

  • 2013年07月01日

宮城県石巻市雄勝町に向かいます。震災復興支援のイベントに参加する為です。

 

石巻市といえば、最近ユネスコから支倉常長の慶長遣欧施設関係資料世界記憶遺産に登録が決定されました。仙台市博物館に展示してあります。

支倉常長の遣欧の目的については色々と誤解があるようです。

支倉常長の使節団が何故メキシコに行ったのか?

何故ローマ法王に接見を求めたのかを見間違えます。

冒険家でもなければ、キリスト教の為でもありません。

震災復興に繋がるスペイン・メキシコ優遇通商の為です。

 

伊達政宗は「私はある時黒船を造らせて、南蛮国へ渡らせた。これは他国の重宝を求めたのではなく、異国に対する自分の名誉の為に行ったのだ」と述懐しています。

時代背景を考えると目的が明らかだと思います。

1611年慶長の大津波が襲います。東日本大震災と同等規模の大震災だと言われています。伊達政宗はメキシコと日本の通商を望んでいました。

当時はオランダ、イギリスの勢力が拡大しており、それを阻止しスペインを優遇する戦略を練っていた時期です。

また九州からではなく、東北から直接の通商により復興支援を行いたいと考えていたようです。

いわゆる南蛮貿易ではなく、仙台藩が自ら外国に出向き独自の太平洋貿易を行おうとした事は革新的な発想だと思います。

勿論正宗以外に実行に移した大名はいません。

 

黒船来航はそれから200年以上も後の1853年です。

これは相当な年月です。1853年から200年後は2053年です。

伊達の黒船は木曽から材料の木材を運ばせました。

これも当時としたら異例の事です。

幕末よりも遥か前の時代。しかし既にキリスト教弾圧が始まっており時代に翻弄された支倉常長。

サン・ファン・バウティスタ号はサン・ファン館(宮城県慶長使節船ミュージアム)にありますが、東日本大震災により現在休館中です。しかし、道路からも公園からも眺める事はできます。